英語アレルギーの人一倍激しかった僕が、なぜ留学?。英単語を聞くだけで嫌やったし、英語の授業は一番前の席にいながら爆睡をする毎日やったりしたのに・・・。 留学資料を集めまくり 留学する事を決めるまでの僕の気持ちの変化について、ちょっと(?)書いてみようと思う。 |
英語アレルギー | ||
僕が英語を習い始めたのは、なんと幼稚園の時。自宅近くの教室に通っていた。それから、小学生低学年の時は別の教室、そして高学年になってからはネイティブの英会話教室に通うなど、英語勉強歴に関する話しには事欠かない。思えば、恐ろしく長い間英語の勉強をしているわけであり、ペラペラに話す事ができて当たり前なのだが、今の僕の状態は
そうは いっていない。 僕には英語アレルギーがたっぷりあった。発生起源はおそらく高校時代で、英語のテストがうまくいかなくなってしまった事が原因なのだろう。そのアレルギーが出てからというもの、英語という単語が付くすべての物から逃げるようになり、それまで覚えていた文法もほとんどを忘れてしまうまでになった。進学する大学も、英語の入試テストがないことを第1として選んだほどである。もちろん、大学入学後の英語の授業も真面目に受けるはずもなく、一番前の席に座りながら爆睡をかます毎日だった。 |
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続英語アレルギー | ||
僕の英語アレルギーは、その後長い年月を経て益々拍車がかかり、相当ひどい物になっていった。 26歳当時の事、それが少しだけ変化した。僕のそばにいつもいてくれた人が僕とは正反対の人で、英語を相当に話す事ができたのである。海外旅行にも共に行ったが、言葉で困ることは全くなかった。彼女はこの力を持つ上に、更に 高い社交性をも兼ね備えていたので、僕には頻繁に外人と遊ぶ機会があった。が、僕は重度の英語アレルギーである。単語さえもほとんど出なかった。その時の頻繁に使っていた言葉は「Japanese Spirit!」、以上(異常?)だ。 その当時の僕は、それでいいと思っていた。そばに流暢に話ができる人がいるからその面は任せればいいと思っていたし、うま過ぎるからこそ多少の事では追いつけないと あきらめもついた。更に情けない事に「同時翻訳機が近い未来に実用化される」という自分に対する逃げ口上をも見事に作り出してしまっていた。だが、その様に言ってはいたものの、「僕には能力がない」というストレスが少しずつ自分に溜まっていっていたのだろう、と今は思う。 |
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きっかけ | ||
すべてのきっかけは、28歳の終わりの時期に起こった。 僕のもとで働いてくれていた仕事のパートナーが、ある日僕に、仕事を辞めると伝えてきた。その理由を聞くと、「就職先が決まった」からとの事。どんな企業に?「会計事務所」。場所は?「ロサンジェルス」・・・ その言葉が僕のきっかけの全てとなった。彼は僕に、忘れかけていた 逃げていた事がある事を気付かせてくれたのである。 「僕はこのままではいけない」。 |
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その背景 | ||
僕はかなり頑固である(らしい)。自分の主張はすぐには変わらない。かつ、日本好きの英語嫌いがえらく強い。そんな性格の為、本来ならばパートナーの海外企業への就職という事で動くことはないと思う。それなのに動揺したのは、多少の背景があったからだろう。 僕の現在の仕事は、パソコンのアクセサリー(マウス・LAN関連製品・パソコンラック等など)を扱う会社の営業職だ。不動産屋営業、情報システム課勤務、その後より始まり、今で4年ちょっと続いている。この仕事を一生懸命勤めてきた中、僕の生活を大きく変える出来事が2年前に起こった。大阪駅前の超大型カメラ店の開店、そしてその担当となった事である。 担当となった時から生活が大きく変わった。それまでの僕は会社の休業日に働く事は まずなかったのだが、担当となってからは、休業日に休む事の方が珍しくなってきた。ところが変な事に、口では「それが えらいしんどいや」と当たり前の如く言っていたのだが、実はあまり辛いとは思っていなかった。自分の大きな勉強になっていると感じていたし、また、やる気にも満ち満ちていたからである。 変化があったのは、担当就任から約1年3ヶ月の後、担当が変更になると聞いた時からである。人の心とは面白くも もろい物で、そういった少しの言葉で大きく動いてしまう物なのだ。それからの僕は、変更後の事を考えながら、担当の最後の仕事だと気持を切り替えて仕事をしていった。ところが、変更のあるはずの時になっても何もない。ふたを開ければ、現状のままとの事だった。気持が切り替わってしまっていたので、それはえらく辛い決定だったのだが、どうこう言うてもしょうがない。再度気持を元に戻して仕事に取り組んだ。 それから色々と辛いこともあったのだが、2期目の担当を勤め、自己満足なのだろうが一生懸命問題解決をしてきた。そして・・・数ヵ月後、再度の担当変更連絡が舞い込んで来た。それからは気持が以前と同じようにシフトチェンジ。そして徐々に前回以上に大きく変えていってしまっていた。だが・・・ 僕も弱い。ずっとそうは思っていなかったのだが、今になってよく分かった。担当の変更は今回もなく、続けていかなければいけないとの事だった。もう気持は元に戻ることなく、辛いことが とても辛いと感じるようになった。そして「このままこの仕事を続けていて僕には何が残る」とまで考えるようになった。 その様な気持に陥っていた時に聞いた事、それがパートナーの就職の事だった。思いっきり動揺してしまった。 |
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その後 | ||
それからの僕は、目的に向かって突き進むのみである。僕の最も大切にしている言葉「ワレ凶カ愚カシラズ、一路遂ニ奔騰スルノミ」、その言葉通りの狂いっぷりで、きっかけより約1ヶ月の間に、英会話教室への通学、エージェントとの契約、カナダ語学学校への願書の提出、会社への辞意の表明を済ませてしまった。 こうして、きっかけより1ヶ月という短期間で「留学や!」となっていったのだが、今考え直してみても、これで本当に良かった。留学を決断する背景となった仕事の事についても、裏の意味では決断する状態をつくってくれた事に感謝しているし、表の意味でも、一生懸命にさせてくれる環境を持つ会社の構成員にしてもらえ、かつ、色々な力が身に付いたと思うことが今できる事に本当に感謝している。仕事の中で、実績をあげた事は当たり前ながら良かったと思っているし、辛かった事についても うまくいく以上の大きな勉強ができて良かった。日本一の店舗の担当であった2年間とその中で勉強したという事も、多くの人が体験できる事ではなく、本当にありがたかった。感謝の心は尽きない。 これからの僕は、もう一歩前に進むために頑張っていこうと思う。 |
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2004/2/15 |